不在が存在する
"Absence Exists"
installation/ 2018
椅子、風船、スピーカー、カーリングリボン、ボンド、プロジェクタ
Balloons, chair, curling ribbon, wood glue and projector
installation/ 2018
椅子、風船、スピーカー、カーリングリボン、ボンド、プロジェクタ
Balloons, chair, curling ribbon, wood glue and projector
Exhibit:
白金五丁目アワード アート部門・ファイナリスト展 Vol.2 "MAHO HIKINO EXHIBITION「不在が存在する」" August 24 – September 1, 2019 at OFS Gallery (Tokyo) http://ofs.tokyo/awrd_hikino 都美セレクション グループ展 2018 ”蝶の羽ばたき Time Difference 時差 vol.3 New York-Seattle-London-Tokyo” June 9 – July 1, 2018 at 東京都美術館 ギャラリーC Tokyo Metropolitan Art Museum, Gallery C (Tokyo) https://www.tobikan.jp/exhibition/2018_groupshow.html “In the Shadow of Olympus” March 1st to 31 , 2018 at SOIL Gallery (Seattle) http://soilart.org/ http://artbeasties.com/next-event-info/ 記録集(発行:東京都美術館) https://www.tobikan.jp/media/pdf/2019/groupshow2018.pdf 白金五丁目アワード アート部門・ファイナリスト展 Vol.2
"MAHO HIKINO EXHIBITION「不在が存在する」" at OFS Gallery (Tokyo) 都美セレクション グループ展 2018
”蝶の羽ばたき Time Difference 時差 vol.3 New York-Seattle-London-Tokyo” at 東京都美術館 ギャラリーC 主催 : ART BEASTIES、 東京都美術館(公益財団法人東京都歴史文化財団) 助成 : 公益財団法人 朝日新聞文化財団、 芸術文化振興基金 本展の記録集(発行:東京都美術館) https://www.tobikan.jp/media/pdf/2019/groupshow2018.pdf 出光美術館・笠嶋忠幸氏と東京都美術館・山村仁志氏から、批評をいただきました “In the Shadow of Olympus”
at SOIL Gallery (Seattle) |
概要:
今日私の吸っている息は、昨日あなたが吐いた息の一部かもしれない。 空気が示すように、私は常にメディア(媒体)をまとっており、それは私に呼吸をさせ、私を存在させるために必要不可欠なものでありながら、同時に私の存在はメディアを通じてしか認知されることはできない。 私に与えられるメディアは限られていて、この世界の知覚はいつも限定的である。 メディアは既に誰か、何かと繋がっている。 自己は、他者(世界)に懐柔されることで存在する。そこにある無限かつ不明瞭な感覚は、私が幼い頃から感じていた単なる現実であり、恐怖であり、同時にそれを捉えたいとする自己への欲求である。 椅子の上に居るのは「私」であり、あなたであり、ただの空気である。 風船は、設営時は透明だが、ゴムの変質により展示期間の日数をかけて徐々に白濁していく。 一過性で/一瞬一瞬の、変化と喪失をインスタレーションとする。 ___________ 「メディアアート」と広く言われるジャンルは、最先端技術への目新しさが先立つものではもはや無く、それらが物心のついた頃から当たり前に身に染み付いている私たちにとっては、あらゆる「メディア(媒体)」から自己を問い直す、とても原始的な振る舞いを必要とするものであろう。 この作品で再生される映像は、私が日々の生活の中で、10年ほどかけて、iphoneなどで何気なく撮りためているものである。ほどんど記憶にないものもある。私自身の記憶でありながら、その時に確かに感じていたはずの感覚や感情は、月日が過ぎればだんだんと曖昧になる。そしてビデオが再生されるたびに、記憶は上書かれ、もともと実際にその場で感じていたことは何であったか、記憶はどこからきたのか、境界は曖昧になる。 撮影者自身さえ、その記憶を見失った映像が、何度何度も繰り返し再生され、(他者に)鑑賞され、新しい意味付けをされていく。 全てものが刻々と変化し、失われ、繋がっていくこの世界において、私にとっての「メディア」アートとは、この世界を再生し再構築していく試みである。 デジタルビデオは、理論上は永久に保存・再生が可能であるはずだが、果たして、本当に、ここにあったはずの世界は、永久に再生できるのであろうか。 私を存在させうる「メディア」は、再生を繰り返すことで、永久に私を存在させるであろうか。 ___________ 一脚の椅子を置き、その頭上を中心として、空間全体に透明の風船(300個程度)を吊る。 この風船にプロジェクタで映像を投影する。プロジェクタから音出しあり。 プロジェクタと映像再生機を繋ぐケーブルを傷つけ、映像と音にノイズを起こさせる。 風船は、設営時は透明だが、ゴムの変質により展示期間の日数をかけて徐々に白濁し、そこに映る映像の見え方も変わっていく。 この展示中に起こる緩やかな変化や、映像と音のノイズ、風船の揺れや光の反射といった一過性で/一瞬一瞬の動き、それらがデジタルメディアと交わることで、「不在が存在する」インスタレーションとなる。 会期中、椅子に作家が座るパフォーマンスを行う。 作家(もしくは代理スタッフ)立ち会いのもと、来場者の方が椅子に座ることも可能。 制作中に行ったインタビュー As borne out by the air, media envelops me at all times, gives me breath, is essential to my very being. Yet, at the same time, discernment of my existence cannot be made through media alone. The media with which I’m provided is limited, and my cognizance of this world is forever limited as well. Media is characterized by preexisting links to somebody, to something. The air I breathe in today may contain air you breathed out yesterday. Conciliated by others (the world), the self exists. The infinite and indistinct sense in that is a simple reality I’ve felt since I was young. And at the same time it’s a desire I feel towards myself to want to get ahold of it, a fear. What’s on the chair is “me”, it’s you, it’s just space. ___________ The genre broadly referred to as “Media Art” is already at this point not about interest in, or inspiration from, the power of cutting-edge technology taking precedence; with such technology surrounding us as a matter of course, the approach that must surely be required of us is the quite primitive act of making a reexamination of self through all forms of media. ___________ Many balloons float tethered above a chair, and a projector projects video images onto them. At unscheduled times the author conducts a performance sitting in the chair. interview ______ ”蝶の羽ばたき Time Difference 時差 vol.3”展によせて(2018) これまでの第1回、第2回「時差」展の流れから、本作は「時差」というズレの中で繋がる関係性の幅をより広く捉え、一見自分とは関わりがないように思えるものを含めた他者(世界)との繋がりと時間から、自己を考察したい。 From the trajectory following our first and second “Time Difference (時差)” exhibitions, in this piece I aim to more broadly get hold of the breadth of relationships that come to connect amidst the disconnects of time difference, as well as to make an examination of self through connection with others (the world), including things that seem at first glance to have no relation to myself, as well as that time. ______ “In the Shadow of Olympus”展によせて(2018) “In the Shadow of Olympus”の正体は、そこにあると思われている、国家や大企業の「巨悪」のようにも見える。 しかし実際その正体は、何万人・何億人という、不特定多数の人間から発せられる様々な意思や言葉の、複雑な絡み合いであると私は考える。その固まりは、あからさまな「巨悪」よりもよっぽど恐ろしく、寄せ集まった個人の意思(善意)は、常に不透明なままで、意思のない虚像となり、正体は存在するが不存在である。 そこにある無限かつ不明瞭な感覚は、私が小さい頃から感じていた他者(世界)への感覚であり、同時にそれを捉えようとした自己への感覚である。このインスタレーションは、私の経験、体感の投影である。 "In the Shadow of Olympus" can seem to give the appearance of embodying the sort of "great evil" imagined to be present in certain countries or corporations. But I feel like what truly forms the basis of its identity is a complex entwinement of speech and intention from some huge, unknown number of people, like in the tens of thousands or hundreds of millions. And this assemblage is actually much more fearsome even than that out-and-out "great evil." Within it the good intention of the individual among those gathered together remains ever obscure, reduced to a virtual image devoid of intention. Though identity exists, it is not present. The boundless/indistinct feeling in that is the same as what I felt towards others(the world) since I was little. And at the same time it's what I felt towards myself when I tried to grasp what that was. This installation is a projection of things I've experienced and physically sensed. |